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越谷の飛行場跡探索・その3 [飛行機]

だらだら続く(あうっ)飛行場跡探索編その3。
今回は周囲に残っていたりいなかったりする痕跡の探索編や、おいらが感じる「?」を推定して見た等であります~。



飛行場跡をぐるりと徘徊してから、周辺に当時作られていた附帯設備の方向へと転進。
終戦直後の航空写真には、滑走路エリアからやや離れた所に附帯施設らしき物が写っています。

(出典:国土地理院航空写真)

画像右側の飛行場エリアから、左(西)の方に結構幅広な通りと道路に面する広場状の物がありますが、こちらが当時飛行場に附帯して作られていた、飛行機掩蔽用エリアとの事。
滑走路北エンド辺りから約1.5キロ程の距離があります(ルートラボでの測定)。

駐機スポットの様な広場があり、取り付く道の形状も直線と緩やかなカーブの組み合わせとなっており、この辺りは誘導路その物な感じです。
さらに、上画像左側の部分にも工事中の様な道が散見されます。この辺りは現地はちょっとした丘状なので、秘匿用の掩体設備でもこしらえる計画でも合ったのでしょうか?
ですが、この辺りは基地その物と同様に未完のまま終戦になった様子。

今現在の地図では、道路の巾や取り付きも変わっていて痕跡はあるのか不明でしたが、せっかくなのでちょっと足を延ばして見たのですが・・・やはり、当時の痕跡は殆ど窺い知ることが出来ませんでした。

上画像は、水上公園横の道から該エリアを遠望した図。
画像奥のちょっとこんもりとした丘状の辺りが探索しようとしているエリア。

ちょっと前に通った水上公園西端から目的地方面へ向かったのですが、ちょいと道を間違えてしまい、ちょっと南の方に行ってしまいました。

上画像中央の大きな白い屋根の建物は、当時の村名が残る新和小学校の体育館。
当時の航空写真では、この辺から緩く北側(上画像の右手方向)へカーブする道が分岐しているのが見えるのですが、今はもうありません。

上の航空写真中央辺りの、正に誘導路的なT字路の現況が下の画像。

流石に70年も経つと全然痕跡もありませんでした。
当時は、多分最低限戦闘機クラスが移動出来る位だとしたら巾10メートル位はあったであろう道も今は普通に良く見る田んぼ脇の田舎道。

隠蔽駐機用として整地された辺りは、今でも面影が残る所もあるとか聞きましたが、公道面からでは窺い知れず・・・
本来の計画では、最後にちょっと離れた所にある飛行場の遺物を見学してから帰路に付つく予定だったのですが、ちょいと時間が押して来たのと何だか疲れてしまったのでこの日はこの辺で徘徊終了。

残る一箇所ですが、たまたま徘徊した数日後に仕事で付近に寄る用事が出来(おぅ~)、及び駆け足ながら探索できる位な時間がタイミング良く舞い降りて来たため(ホントだよ)、上手く探る事が出来ました。

こちらは、滑走路跡北端にある水上公園歩道橋から直線距離で約6キロ(こちらもルートラボにて計測)離れた所にある、さいたま市岩槻区は南平野の稲荷神社。

神社のすぐ脇、元荒川に沿った川沿いの道に面して建っている石碑。
この素材に飛行場滑走路のコンクリートを使用しているのです。

碑名は、「興農事業完成記念」。昭和26年建立な様子。

川に面した表側?には、昭和23年から始めた周辺の農地改良事業の内容が刻まれた碑文、裏側には発起人?の方に対する村民の謝辞?が刻まれた碑文がはめ込まれているのですが、碑その物が滑走路(だった所)から剥がしたコンクリートだとか。

確かに、碑の表側は地表側みたいなやや平滑で、

裏側はゴツゴツしてたりします。

今回、この碑文裏表を収めた画像から書き写してご紹介しようと思ったのですが、ちょいと判別が出来ない所があり今回は割愛・・・この稲荷神社境内、他にも何だか興味惹かれる物があるので再訪予定。
再訪し、判別出来ましたら、この記事への追加若しくは新ためてご紹介する予定ですので、当てにしないでお待ち下さい~。




おまけ集・よかったら覗いて下さい


越谷の飛行場跡探索・その2 [飛行機]

前記事からの続き、「越谷陸軍飛行場」周辺の徘徊記録その2です。

南東の営門跡とおぼしき所から、反時計回りで当時基地外周に設けられたと思しき排水路伝いに廻って行く事にしましたが、東北から北側は再開発が進んでおり上手く辿る事が出来ません。

南から北に進んで行くと、越谷市のリサイクルプラザ(粗大ゴミ受入施設)が左手に見えて来るのですが、上画像がその建物の向かい辺りの光景。

道から斜めに用水路が伸びていますが、これが当時の基地外周とおぼしき痕跡。
この用水の取り付き方向が、当時の滑走路の向きとほぼ平行な南北方向。

自転車では用水に沿って進めないので、最寄りの道で北に向かいますが、この先北端部は運動公園や水上公園および高校の敷地等が広がり、すでに外周跡に沿って進む事は出来ません。なのでショートカット。

上画像は、滑走路北エンドのターニングサークルと誘導路が交わっていた辺り。
この駐車場北側にある道を西に進むと、水上公園の脇辺りで当時の外周排水路とおぼしき用水路が再び合わさりますが、この辺りから市境を越え、さいたま市岩槻区になります。

上画像の水路が、当時の外周とおぼしき水路で、右奥に見えるのが県立越谷北高校の校舎。

西側の岩槻側は、当時とそんなに変わっていないかの様な田んぼが広がる光景。高い建物も皆無なので、ちょっと先にある埼玉スタジアムが良く見えます。
その先、西側の外周跡に沿って南下して行った所で見つけたのが、この飛行場の通称名の一つな「論田」の名前が入った電柱。

「論田」と言う地名。無くなって久しい様で、この電柱の表示以外にはお目にかかる事は出来ませんでした。ネット検索でも上手く引っ掛からず・・・
補足ですが、もう一つの通称名の「新和」は今でも小学校の校名として存続しております。

さてさて、外周跡らしい道と言うか、所々あぜ道みたいな所を進んだ先の南端エリアが、当時の遺構が一番残っているエリア。

滑走路南エンドのすぐ西に、コンクリートの基礎と格納庫の痕跡らしい物が今も残っていました。

コンクリート基礎は、通信塔の基礎なのかなと思いますが詳細不明。その背後の林状の所が当時の航空写真で見る事が出来る格納庫らしい建物が所在していた所。

コンクリ基礎は、稲刈りも終わっていたので近くまで寄って観察して来ましたが、浅学なおいらはやはり詳細不明に終わりました。

入れられた砂利がかなり粗い・・・この辺は後の構造物でも顕著に見受けられます。

夏に見かけた、桶川はホンダエアポートの敷地の片隅にある物と形状が酷似しているのですが、どちらも詳細不明。
ご参考までに、桶川の画像は「こちら」です・・・

格納庫?だった辺りは、菜園が広がっていたので近くまで行かずでした。

しかしこの格納庫エリア、設けられた誘導路とは逆の位置に所在しているのが解せないおいら。
航空写真で見ると、滑走路の巾が公称値60メートルと言われていますが、その巾に匹敵する位の間口なので、まぁまぁな大きさの格納庫が所在していた様子。

現在の航空自衛隊基地で見られるような、スクランブル発進用(当時は、「警急隊」なんて呼んだとか)として設けられたのか・・・?でも、物量の差が圧倒的に違う時期にそれは無いかな?
それとも、当初はこの一角に格納庫や基地施設を作る予定だったのが、地勢の関係で紆余曲折の結果こんな中途半端な配置になってしまったのか?

詳細な工事資料でも残っていれば、その辺も定かになるのでしょうがね~。

閑話休題、先に進みます。
この日(11月3日)はそのまま滑走路跡道路方向に進んだので、その前週の下調べ時の画像で南端の池等を紹介します。
このエリアの南に当時作られた調整池、「新堀池」。国道463号バイパスの建設で大分面積が減りましたが、まだ残っています。

地元俗称では、「飛行場沼」とも言うとか。
今では国道463バイパスが出来た関係もあり、すんなり池まで行けなかったりする事をご報告しておきます。

この池、池の周囲に用水路が張り巡らされていて、池には釣人が掛けたであろう足場板の様な橋からでしか入ることが出来ませんでした。現在の治水系統からも切り離されている様でしたが、その関係か良い釣り場になっている様で、こんな看板もありました。


話を3日に戻しまして、格納庫跡先の滑走路跡道路との間にあるのが、当時設けられた排水用の水路。

滑走路の東西に一本づつ、平行して南北に同様の物が設けられており、堅牢な作りなので撤去もされず残っております。

形状はボックス状の鉄筋コンクリート製で、上部には出水を取り込む為の穴が点々と設けられています。なんでも、「戦車が乗っても壊れない」とか・・・
そもそも、なんでこんな作りの排水路を設けたのか?

これは推定ではありますが、滑走路と平行する東西の部分は当時の他の飛行場で見受けられる「離着陸帯」として整備しようとしたのでは無いかな?と。
飛行機が上を通るので、この様な堅牢な作りの排水路が出来たのではと推測する次第であります。
それにしても、ゴツゴツした作りが戦争末期の時世を想像する事が出来ます。

こちらは、滑走路東側の水路。

上に土が覆いかぶさっている所などは、ただの農道の様ですが、この下にも水路は残っています。
この水路を初めて見た印象として、「たまった泥はどうするのだろう?」と言う素朴な疑問がありましたが、徘徊していると答えらしき物が。

所々に、蓋が開けられる様になった箇所があり、そこから掻き出す様な感じになっていました。
排水路跡も探索したので、当時の滑走路跡の道路に戻り北へ。

元々の滑走路は、巾60メートルのコンクリート舗装だったそうですが、終戦後コンクリは剥がされて復興資材に転用され、現在見られる巾狭の道になったとの事。今の道は幅員10メートル位で、この左右両脇の建物がある辺りも滑走路だったそうです。

以前は、産廃業者の施設ばかりだっと様ですが、通ってみると何だかクルマのカスタム系なショップが多いのが目に付きました。

滑走路跡の道を北に進むと、先ほど東西に抜けた水上公園の入口脇に至るのですが、公園の入口そばにある歩道橋が当時の北エンド辺り。

はみ出し話ですが、この水上公園。夏場は当然プール主体で営業していますが、今時はプールに魚を放し釣り堀として営業してたりします。

ずいぶん前に、連れられて一度行きましたが、ボウズでした・・・釣り堀オープン直後が、放した魚がスレて無く釣りやすいとの事。

この北端から、西にちょっと離れた所に当時作られた施設と、はるか離れた岩槻の地にもう一つ飛行場関連の物があるのですが、またまたここで切らさせて頂きます~。

「その3」は、残りの光景及び素朴な疑問編と参考リンク集の予定であります。

続く

越谷の飛行場跡探索・その1 [飛行機]

今回は先月から数回探索して来た、今では「越谷陸軍飛行場」と呼ばれる事が多い周辺の徘徊記録その1です・・・中々手短にまとめる事が出来ませんでして・・・ゴメンナサイ。

今回のお題な場所はこの辺り、現在(H27)の行政区画で言うと、埼玉県はさいたま市岩槻区と越谷市の境目にあたるエリアになります。

この辺り、何だか妙に周辺と違う直線道路が合ったり、周囲の道とは方向が違う取り付け方だったりなんかと見て取れるかと思いますが、この一帯が飛行場として開発された頃の名残り。

当時はまだ、さいたま市(岩槻市)や越谷市などの大きな自治体では無く「新和(にいわ)」村及び「荻島(おぎしま)村」だったため、村名の「新和飛行場」、「荻島飛行場」とか、土地の名前の「論田(ろんでん)飛行場」、「末田(すえだ)飛行場」などの俗称で呼ばれていた様子です。
結局航空基地として未完のまま終戦を迎えたためか?制式な名称は無かった様子。
今では、最初に書いた呼び方が浸透している様ですが、いささか疑問があるおいら。この辺は最後に書いておきます。

さてさてこの飛行場、本土決戦に向けた首都防空力増強のため昭和19年7月に着工し、同年10月には竣工の予定だったのですが、工期が遅れに遅れ周辺住民の挺身隊や朝鮮人の使役(強制労働?かも知れません・・・)なども動員し、結局工事完了したのは翌20年8月。
8月と言えば、15日で終戦になったため、結局本来の目的には間に合わなかった幻の飛行場となってしまいました。

とは言え、滑走路は使われた事もある様でして、終戦間際に一式戦・隼が1機着陸した物のオーバーランして大破したのみと言う話や、二式複戦・屠龍海軍の局地戦・雷電等が飛来して実際に離着陸したとか、終戦後米軍のP-51が降りたなんて話がありますが詳細や真偽のほどは良く解らず。
この辺の疑問推測は後にします。

上が、現在国土地理院の航空写真閲覧サービスで見る事が出来る一番古い現地の航空写真。米軍機撮影の物で、終戦から半年ほど経過した昭和21年3月の同地。
緑線で囲ったのが、何となく解る基地外周の境界。
位置参考用として右横の青線で囲んだのは、宮内庁埼玉鴨場です。ご参考まで。

見た印象としては滑走路は出来上がっている物の、附帯設備が不完全と言った感じで、贔屓目に見ても「工事完了」と言うには程遠い印象。
ただし、滑走路なんかは欺瞞用に迷彩でも掛けていた感じでして、もう少し後の航空写真では滑走路や誘導路がハッキリ見て取れます・・・もう少し後の航空写真が、下の物。

滑走路は、両エンドに方向変換用ターニングサークルが付いた他基地の当時物航空写真でも見かける作りなのですが、誘導路にかなり違和感を感じるおいら。
最初から、この構想だったのか地形の関係でこんな感じになってしまったのでしょうか?

現在では、このエリアのすぐ東側を国道4号バイパスが南北に貫いておりますが、バイパスが通っている辺りは今でも台風や大雨で冠水通行止めになる頻度が高いエリア。
70年前は今以上に地盤が弱かったり排水も良くなかったりと想像するおいら。当時は重機なんて機械力も皆無に等しい状態だったため、かなり難儀した工事だったのは無いかなと推定しております。

余談ではありますが、数年前の竜巻が発生したと推定されるのがこのエリアだったり・・・

終戦後は米軍が進駐した物の、こちらはすぐに接収解除され、陸軍省解体に伴ない他の基地跡同様大蔵省管理となった同地。その後引揚げ者や開拓者に払い下げられたとの事。

と、長い長い前説でしたが、徘徊話を展開いたします。まずは、基地の入口(営門)では無いかと思われる所から徘徊開始。
誘導路の下側、方角で言うと南東に当たる位置にまばらですが兵舎と見られる建物が点在しています。

そのエリアと付近の集落を繋ぐように伸びる道路が、多分?営門が所在した(あるいは営門となる予定だった)可能性が高いかな・・・と推測した次第。
現在の同地が、こちら。

失礼な表現ですが、この辺にしては何だか無駄に広い道路が伸びております。
この通りを先に進むと、誘導路脇の指揮所と見られる建物が建っていた所まで行く事が出来ますが、今は当然全然面影もありませんでした。

上の画像が誘導路跡に沿って残る道筋の北側を見た図ですが、当時よりも道幅はかなり狭くなっております。南側は、最近越谷辺りでも少なくなった未舗装路が少し残っていたり・・・

舗装の需要が無いからでしょうが、こちらも知らない人が見ると無駄に広い道幅な印象でしょうね~。

ここから、当時の兵舎跡地に残る建物を確認するために、一度先ほどの営門?位置まで戻ったおいら。
建物は長屋状の物がまだ一つ残っていましたが、お住まいの方もいらっしゃるようなので画像は割愛致します。代わりに、勤務先にあった20年くらい前の住宅地図画像でちと解説を。

他に建物が無かった頃、採光が良い様に?道筋関係なく建てられた建物が兵舎の名残り。
三棟の長屋状の物が平成になるまで現存していたようですが、その後の宅地開発で画像のグレーに塗りつぶした建物は今は無く、赤く塗りつぶした一棟だけが現存しております。

見た感じでは、建物的には兵舎をそのまま転用した物では無いような印象でしたが、詳細は不明であります。

ここから、当時の基地外周であろうと思われる道筋に沿って一回りして、今も残る飛行場の痕跡を探りに行ったのですが、ここで一旦切ります~。

その2に続く

【開設56周年】下総基地駆け足見学記~’15【記念行事】 [飛行機]

運良く、仕事の合間に行く事が出来た今年の下総基地記念行事。
夕方指定訪問先へ向かう途中なため、現着時間は午後3時過ぎ・・・かつ、滞在時間は1時間には満たない駆け足見学でしたが、結構収穫もありました。
例年、空自百里基地の航空祭の様な混雑も無いこの下総。まだ帰り渋滞も始まっていないためすんなり基地内IN。

今年は行かない予定だったので熱心に基地HPを見ていませんでしたが、直前にイベント情報を覗いても今年は情報量が少ないので、外来機は何が来ているのかは現地に着くまで解りませんでした・・・

ちなみに、おいらの希望アンド予測は、実戦部隊への配備も始まり出した新型対潜哨戒機P-1と、退役したYS-11の代替として海自に配備されたC-130R。もう残り少なくなったUS-1なんかも来てるとウレシイ・・・的な展望でした。

現着しエプロン地区に入ると、例年午後は閑散としているここ下総ですが、今年は何だか展示機もスカスカ。

展示エリアセンターのP-3Cは、ここ数年は記念周年と合わせた機番の機体にマーキングして展示していたのですが、今年は「56番」機が所属していないためか通常な展示でした。
でも?語呂合わせなのか「65番」機が展示されていたりして・・・逆に読めば「56」だし。

上画像の後にチラリと見えますが、今年はP-1が地上展示されていたので周囲をグルグルして来ました~。

大きさ的には、横に並んでいるP-3Cよりやや大きい位なP-1ですが、同サイズな旅客機では見かけない4発ジェット機な外観が新鮮。

所属は、実戦部隊の第3航空隊でした。母基地は厚木。
近寄って「ぱしゃぱしゃ」・・・

真円な形状では無い独特なエンジンナセルも目の前で見られました。
この手のエンジンって、通常の旅客機や輸送機では機体の大きさの関係などで、展示されていてもこんなに接近出来ないのと、脚立など使わず目線の高さでインテークを見る事が出来ませんが、P-1は小柄な機体にエンジン搭載をしている関係か覗き込む事が出来ました。
下画像は、見学している人とのサイズ及び高さ対比画像です。

後姿なので、画像勝手に使ってしまいましたが、心当たりのある方はご連絡くださいませ(ペコリ)。
後ろを見ていると、「ちょいロービジ」なマーキングな色味も発見。

「海上自衛隊」表記が背後のP-3Cの様な真っ黒では無く、青色系で記入されていました。
アメちゃんほどのロービジ度では無い物の、低視認度を考慮して来たのでしょうかね~?。
とは言え、一番「日の丸」が目立ちますが・・・

等とエプロン地区を駆け足で眺めた後、献血しようと献血コーナーへ行ったのですが、残念かなすでに終了時間を過ぎておりました。残念。
献血コーナーの先の露店ブースも撤収モード。時間の関係もあるので、その先の厚生センター棟には行かずにおいらも駐車場方向へと逆戻り。
エプロン地区はすでに外来機帰投のための準備が始まってました。

規制線が広がり、人払いがされているので人の少ない画像が収められました。


と、仕事の合間だったため駆け足でしたが良い物が見られました。
こちらでの時間調整様子もよく、夕方指定のお客さんとも丁度良い位に落ち合うことが出来ました。

要件も完了して帰る途中、R16を北上しているとP-1が帰投して行きました。
時間は1700前後、すでに高度も高く眺めるのみでしたが、その内自宅上空でも頻繁に見られるだろうな~なんて思いつつ眺めていたひまねねであります。

もう一つの希望。C-130Rは来てませんでしたが、今年も飛来していた空自のC-130は久しぶりに見た迷彩色の機体でした。

最近、海外派遣色しか見ていなかったので、オリジナルな色味忘れかかっていました。

その他、今年も少ないながら目に付いた物を見つけましたが、「おまけ編」に続くとさせて頂きます・・・
こんな光景です~・・・




ただし、一番下の画像は独立ねたで派生させるかも知れません。



【航空機の墓場】「モン」なのか?「マン」なのか?【IN米国】 [飛行機]

Yフーで、こんな記事を見かけました。

米軍のB52、「航空機の墓場」から復活 来年にも前線へ

(いつも通り、上見出しは該記事にリンクしております)

CNNの日本法人から配信のこの記事、要約すると機体点検の出火で修理代が嵩む同機種の替わりに、こちらで7年眠っていた機体を整備復活させたとの事。この機体その物も製造後53年経過した機体と言う事で話題にした様子なのですが、おいらが気になったのは、保管されていた「飛行機の墓場」の日本語表記。

アメリカでお役御免になった飛行機が(軍用、民間色々)、砂漠にずらりと並んでいる光景をメディアで見た方もいらっしゃると思いますが、大抵この場所は「デビス モンサン」と表記されてました。
ですが、今回の記事に寄ると、
「デービス マンサン」
となっています。
こっちの方が発音的に通用するのですかね~「マ・ハター」みたいに?・・・
「スピード・▲ーニング」やって無いので正解はわかりません。

配信は本家アメちゃん系統なので、ホントはこんな発音なのでしょうかね~。こんな疑問は、以前も見かけた事があるひまねねな物でして・・・

今はボーイングに吸収されてしまった、F-15の製造メーカー。まぁ大体「マグダネル・ダグラス」と日本では表記していましたが、本家製作の日本版広告では「マクドネル・ダグラス」って表記だった物でした。

ちなみに、この場所ってこんな表記だそうです。

Davis-Monthan Air Force Base









おまけ、
海上自衛隊が、YS-11に替わって導入した輸送機。C-130Rもこちらの砂漠から甦った機体との事。

【海自の】見られなかった・・・【YSラストフライト】 [飛行機]

今日の『航空ファン』公式ブログに、こんな記事が掲載されていました。

YS-11、海自から完全退役

(上見出しは、例によって元記事にリンクしています)

記事に寄ると、厚木に残っていた海自のYS-11の最後の2機が昨日下総基地へラストフライトを行った後、26日付けで除籍になるとの事。
事前にネタ仕入れていたら、昨日は丁度振替定休日だったので外周張り付きにでも行く所でしたが、ざんねんかな事後収集でした・・・残念。

それにしても、最後の行先が下総とは・・・?術課学校はある物の、もう全廃になる機材なので教材的な役目でも無さそうだし、除籍後が展示目的とすると鹿屋あたりに飛ばすだろうし・・・
解体払下げなのですかね~・・・で、比較的スペースに余裕のある下総に持って行ったのか?
民航の機体はすでに全機退役しているので、これで日本国内で稼動するYSの残りは空自の機体だけとなりました(海外でも生き残りがいるのかは精査していません、悪しからず)。

以前は下総にもYSの訓練飛行隊があったので、独特の「キーン」と言うエンジン音は自宅近辺でもお馴染みだったのですが、聞かなくなって久しいです。久しぶりに聞きたかった所ですが、自宅周辺の見える範囲はルートで無かった様子で、見かけませんでした。

後継機は、C-130海自仕様だとの事ですので、来年の下総基地祭あたりには、空自のC-130の替わりに展示で出張って来るのでしょうか?ちと期待・・・って来年は基地祭などウロウロ出来るのか不明な勤務先。

ちょっとここに来て混沌としているので、来年の見通しが公私共にハッキリしませんです~。
来週は、お正月だと言うのに・・・あうっ。

【レッドブル・エアレース】年末ジャンボでも買いますか?【2015幕張】 [飛行機]

勤務先から帰宅途中に寄ったローソンで、大小貼られていたポスターに見入ってしまいました。

レッドブル・エアレースが、来年5月に幕張海浜公園で日本初開催との事。
「これは凄そう」と帰宅後検索して見ると、公式?なのかな~・・・こんなページを見つけました。
見てみると・・・今のおいら的にはちと高すぎなチケット額・・・一番安いので3,000円と言うのがありますが1DAYの予選のみとなっていました。通しで見ようとすると、倍以上だったりして。
以前動画を見た感じでは、地上のF1以上に血が騒ぎコーフンするとは思うのですが、「アベノミクス」の恩恵など微塵も無いおいらの懐具合では、宝くじにでも当たってあぶく銭でも出来ないと行けませんです・・・ハイ。

バラで10枚買ってみようかな?年末ジャンボ。


私見・・・
ちょっと前に、こんな動画を見かけましたが、NPBとの調整はOKなのかな~?と思うひまねねです。
今度は単機では無いし、時間も長いし。






私見その2・・・

「アベノミクス」って、個人的にはこう思ったりしてます。

だって、全然効果が無いんだもん・・・勤務先とおいらの懐。

今度の選挙の比例代表は、また「にゃみん党」にでも入れようかな?少しでも有効投票率を下げたい、貧民の抵抗で。

何気なく左右でちょっと違う件・2014 [飛行機]

去年、百里基地航空祭で見かけてネタにした(こちら)、下総所属P-3Cの語呂合わせマーキング。
今年も微妙に左右で違うのを発見・・・しちゃいました。

現地で見た時、「念」の字がレドームに引っ掛かっちゃってるけど、すぐ剥がすからいいのかな?なんて思って見ていたのですが、貼り位置が左右で微妙に違うのを又今年も帰宅後に発見・・・

左舷側の方の貼り方の方がバランス良かった・・・余談ですが、昨年の機体は「周年記念」が部隊マークの上に貼られていました。
作る人もまずいないでしょうが、モデラーの方はご注意の程。

おまけ
「今年はコクピット内お約束のリラックマがいないな~」と思っていたら、今年はこっちの操縦席?にいました。


おまけその2
現地で、「来年は?」と聞いて見ました。残念ながら現在56号機は下総所属では無いとの事でした・・・配置換えでやって来れば良いのですが。
来年は又違う趣向でなんかやってくれるのかと、期待したい所です~。

下総航空基地開設55周年記念行事見学記~その2 [飛行機]

先週末の、27日土曜日に開催された、海自下総基地の開設記念行事兼基地開放見学記。今回は記念行事他の光景であります。

記念行事のオープニングは、基地所属P-3C3機の祝賀編隊飛行。

直後、今回の唯一の目玉?な、後継対潜哨戒機P-1のフライパス。

「3」から「1」に先祖返りみたいな型式ですが、海外物はその国での制式名称で導入されるため・・・例外もあるようですが。
こちらは、「P」カテゴリーの国産機では初めてなので、P-1と言う呼称となってます。

因みに、基となる現行の米軍表記の「P」は、パトロール(捜索機)の頭文字だそうです。
WW2時代の「P」は、追撃機(Pursuit aircraft←ウィキより)となります・・・

間近でP-1を見られて嬉しいのですが、昨年から不調のまま点検に出していないオリE-3・・・こんな大きな機体でもAFがズッコケます。

連写で狙ってたのですが、上画像の後しばらくズッコケ・・・

ようやくピントがしっかりした時は、ヘボカメなおいらの振りと複合した、相変わらずな尻切れ画像でした・・・あうっ。

「降りるかな~」と期待して飛び去ったP-1を遠望してましたが、外周経路?北上中に西方に飛び去りました。

追記:下総上空をフライパスしたこの03号機、ベースの厚木を通り越して?翌28日開催の空自浜松基地航空祭展示に向かった様子・・・なんで自隊の記念行事はフライパスだけなのか?と思うひまねねです。
その後基地司令のお話とか、来賓の祝辞などが続きますが、関係者以外は勝手気ままにウロウロしている、いつもの下総基地祭でした。

一通りな祝辞も終り、ささやかながら来賓に向けた展示も有るのですが、今回は?調整不足な感が。
前記事で朝錬光景をご紹介した、防大儀杖隊演技中に、物資投下デモのP-3Cが・・・

式典MCの方は、こちらには触れずじまい・・・ナレーションも無いまま飛び去ってしまいました。飛行機狙いな方以外は、ドリル演技に注目していた方のほうが大多数・・・来年はヨロシク!

マナー違反ですが、航空無線垂れ流しで聞いている方から漏れ聞こえる交信のおかげで少しだけ撮れました。
その後、ソロ機のハイスピードローパス(と言っても戦闘機ほどの高速ではない)~お約束な基地上空での編隊解散~着陸で飛行展示は終了。

例年、この後に陸自第1空挺団のパラシュート降下展示があるのですが、今年は天候が降下条件に合わない様でキャンセルとなりました。

今年は、式典会場エリアでの救助活動デモとエプロンでの放水デモがありましたが、救助活動の方は人垣のため画像なしです。放水の方も証拠写真程度であります・・・


以後、飛行展示も無いので、固有施設の売店へ・・・小ネタがいくつか・・・

「高速戦艦比叡」って・・・旧軍か?
売店のある、厚生センター内の史料館にあったダミー魚雷。

中々凝ったペイントワークが施されてました。
エプロン地区に戻る途中の桜の木の幹には・・・

何故か金属板が打ち付けてあったり・・・
等等、この辺りは別記事にてご紹介。

午後もハンガー内での演奏や、エプロンでお馴染み「ミニP」ショー等が行なわれるのですが、おいらは午後一の横須賀音楽隊の演奏のみの見学。

後は、献血したり、再び小ネタ収集等行い、今年は早めな3時過ぎに基地を後にしたのでした。



次回は「何気なく左右でちょっと違う件・2014」をネタにしてみます・・・今年も微妙にやってくれました。
よろしくお付き合い下さい・・・

下総航空基地開設55周年記念行事見学記~その1 [飛行機]

i自宅近辺で、一番身近に所在する(千葉県柏市)海上自衛隊下総航空基地。
昨年に引き続き、27日土曜日開催の開設記念行事兼オープンハウスに行って来ました。今回もウルフ125での訪問。

「モクモク」「パラリラ」走行で(要するにヤバイ運転・・・交通安全週間なのに)、基地には開門時間の8時ちょっと過ぎに到着。
昨年撮り忘れた入口近くの展示機体の写真を撮ったりして、てくてくと展示エリアへ。
展示エリアのエプロン地区はまだ開放前でしたが、待ち人も下の画像位。

ここは昔から大きな目玉も無いので、いつもこんな感じ。
まったりとした地域の秋祭り的なイベント風味です。

丁度到着した位に展示エリアも開放。記念式典開催ゾーンでは、防大儀杖隊が朝錬中でした。

朝錬なので、まだジャージ姿?だったりします。本番時の画像は・・・撮ってないです・・・スイマセン。

防大儀杖隊は、懐かしのM-1ガーランド自動小銃を使用しているのですが、日本人の体格が昔よりも大きくなっているためなのか、昔見た儀杖隊より銃が大きく見えない感じが。
ちなみに、本番時には最後に空砲で皆が1発ぶっ放します。

下は、新装された管制塔エリア。旧管制塔は跡形もありませんでした。

昨年は管制塔横に建設中だった建物は、格納庫ではなく第三術科学校の実習場の様子。

エプロン北側に置かれていた、実習用?P-3Cもこちらに移動されていました。

背後のハンガーは昔からある物。
古い造りなので、大型機を格納する時は尾翼を通すのに中央のシャッターを開放する必要がある様子。確か訓練用の用廃機P-2Jが中に入っているはず・・・

航空機展示は、いつもの様に?閑散とした展示。もっとも、戦闘機など保有していない海自ですから空自の航空祭と比べたらいけません。

前記事の「速報」でご紹介した、語呂合わせマーキングの自部隊P-3Cの他は、空自からC-130。

今年は、コクピット脇のGIジョー?は見当たらずでした。それにしても、最近はこのイラク色海外派遣用の色味しか見ていないな~・・・おいら。

何気なく、空自開設60周年記念マークが機体に施されておりました。

陸自からは、OH-6とUH-1および、チヌークのみ。チヌークは式典途中からの参加。

昨年展示されていた、アパッチの様な攻撃系のいかつい物は今回は無しでした~・・・ちょっとぐっすん。

ホストな海自側はと言うと・・・

厚木から来た救難飛行艇、US-2を筆頭に・・・

はるばる西日本の各基地から飛来して来た、目に鮮やかな海自練習機及び訓練支援機の一群他、

ここ下総に近い千葉の館山から参加のSH-60K及び、岩国からいらっしゃったドデカイMH-53E。

おいらは、今更ではありますが、初見のMH-53Eに喰い付いてハアハアしてました~。
後から隣に来たチヌークとの2ショット、大きさ的には互角と言うかそれ以上なボリューム。

重さ的には、YS-11位あるそうな・・・

テールローターの直径も、Pー3Cのプロペラより大きかったり・・・まあこの辺は役目も違うので同等な比較は出来ませんが。

因みにこの機体が所属する111航空隊、以前はここ下総が本拠地でした。

正門入ってすぐの展示機体の中に、当時の使用機が一機展示されております。

昭和の頃行った、同様の記念行事の際に撮った写真も残っているのですが、機材壊れたのでスキャン出来ません・・・あうっ。

と、今回の展示機体は以上・・・寂しいと言えば寂しいですが、来賓を呼んでエプロンで行なわれる自隊の開設記念式典と、抽選で乗る事が出来るP-3Cの体験搭乗にメインの予算をつぎ込んで、後は「各自思い思いに普段は入れない基地内でのんびりして行って下さいね。」と言う趣旨なのかな?と・・・

実際、屋台の出店も地元のお店が多く(「柏やきそば」なる物の販売などありました)、そんな食べ物を買って芝生の上でシート広げてくつろぐ家族連れの方が多いです。

一旦ここで切って、「2」に続きます~。


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