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越谷の飛行場跡探索・その3 [飛行機]

だらだら続く(あうっ)飛行場跡探索編その3。
今回は周囲に残っていたりいなかったりする痕跡の探索編や、おいらが感じる「?」を推定して見た等であります~。



飛行場跡をぐるりと徘徊してから、周辺に当時作られていた附帯設備の方向へと転進。
終戦直後の航空写真には、滑走路エリアからやや離れた所に附帯施設らしき物が写っています。

(出典:国土地理院航空写真)

画像右側の飛行場エリアから、左(西)の方に結構幅広な通りと道路に面する広場状の物がありますが、こちらが当時飛行場に附帯して作られていた、飛行機掩蔽用エリアとの事。
滑走路北エンド辺りから約1.5キロ程の距離があります(ルートラボでの測定)。

駐機スポットの様な広場があり、取り付く道の形状も直線と緩やかなカーブの組み合わせとなっており、この辺りは誘導路その物な感じです。
さらに、上画像左側の部分にも工事中の様な道が散見されます。この辺りは現地はちょっとした丘状なので、秘匿用の掩体設備でもこしらえる計画でも合ったのでしょうか?
ですが、この辺りは基地その物と同様に未完のまま終戦になった様子。

今現在の地図では、道路の巾や取り付きも変わっていて痕跡はあるのか不明でしたが、せっかくなのでちょっと足を延ばして見たのですが・・・やはり、当時の痕跡は殆ど窺い知ることが出来ませんでした。

上画像は、水上公園横の道から該エリアを遠望した図。
画像奥のちょっとこんもりとした丘状の辺りが探索しようとしているエリア。

ちょっと前に通った水上公園西端から目的地方面へ向かったのですが、ちょいと道を間違えてしまい、ちょっと南の方に行ってしまいました。

上画像中央の大きな白い屋根の建物は、当時の村名が残る新和小学校の体育館。
当時の航空写真では、この辺から緩く北側(上画像の右手方向)へカーブする道が分岐しているのが見えるのですが、今はもうありません。

上の航空写真中央辺りの、正に誘導路的なT字路の現況が下の画像。

流石に70年も経つと全然痕跡もありませんでした。
当時は、多分最低限戦闘機クラスが移動出来る位だとしたら巾10メートル位はあったであろう道も今は普通に良く見る田んぼ脇の田舎道。

隠蔽駐機用として整地された辺りは、今でも面影が残る所もあるとか聞きましたが、公道面からでは窺い知れず・・・
本来の計画では、最後にちょっと離れた所にある飛行場の遺物を見学してから帰路に付つく予定だったのですが、ちょいと時間が押して来たのと何だか疲れてしまったのでこの日はこの辺で徘徊終了。

残る一箇所ですが、たまたま徘徊した数日後に仕事で付近に寄る用事が出来(おぅ~)、及び駆け足ながら探索できる位な時間がタイミング良く舞い降りて来たため(ホントだよ)、上手く探る事が出来ました。

こちらは、滑走路跡北端にある水上公園歩道橋から直線距離で約6キロ(こちらもルートラボにて計測)離れた所にある、さいたま市岩槻区は南平野の稲荷神社。

神社のすぐ脇、元荒川に沿った川沿いの道に面して建っている石碑。
この素材に飛行場滑走路のコンクリートを使用しているのです。

碑名は、「興農事業完成記念」。昭和26年建立な様子。

川に面した表側?には、昭和23年から始めた周辺の農地改良事業の内容が刻まれた碑文、裏側には発起人?の方に対する村民の謝辞?が刻まれた碑文がはめ込まれているのですが、碑その物が滑走路(だった所)から剥がしたコンクリートだとか。

確かに、碑の表側は地表側みたいなやや平滑で、

裏側はゴツゴツしてたりします。

今回、この碑文裏表を収めた画像から書き写してご紹介しようと思ったのですが、ちょいと判別が出来ない所があり今回は割愛・・・この稲荷神社境内、他にも何だか興味惹かれる物があるので再訪予定。
再訪し、判別出来ましたら、この記事への追加若しくは新ためてご紹介する予定ですので、当てにしないでお待ち下さい~。






おまけ集

リンク集
今回の徘徊に当たり、下記リンクのページを参考にさせて頂きましたので、リンクを張っておきます。

NPO法人 越谷市郷土研究会と言う団体がホームページを立ち上げているのですが、こちらに2件のレポートがありました。
どちらも同じ方が作られているのですが、一つは10年前で、もう一つは今年作成でして、新しい方は当時の目撃談等を引用してやや細部が異なっております。

10年前発表の物が「戦後60年の幻の荻島飛行場」
今年発表の物は「戦争遺跡・幻の越谷陸軍飛行場」です。

越谷市の広報誌、「広報こしがや」のアーカイブにあったのが昭和53年8月1日号
7ページ目の「市史編さんだより」には、終戦の月にちなんだ市史と言う事で「太平洋戦と荻島飛行場」と言うお話が掲載されております。




おまけその2
素朴な疑問集

①制式名称を推定する・・・

当時の行政単位や地名などで通称俗称がいくつかあるのですが、本稼動した場合はどんな名称になっていたのかと推測してみました。

営門の位置がおいらの推定どおりの南側だとすると、「荻島飛行場」と言うのも有力かな?とも思うし、当時ちょっとは開けているエリアの名前を付けるすると、江戸時代は宿場町として発展し、当時も一番近い鉄道駅がある越ヶ谷町の地名を取り、「越ヶ谷飛行場」と命名されたかな?と個人的には上記2つが有力候補であります。

なぜ「越ヶ谷」なのかと言うと、今一般的な「越谷」と言う書き方が広まったのが、昭和29年に周辺の村落が合併して発足した「越谷町」誕生からなためであります。
ちなみに、一番近い鉄道駅としては、当時は「武州大沢」と言う駅名だった北越谷駅の方が直線距離的には最寄りですが、当時は元荒川にまだ橋が掛かっていなく、すんなりと駅まで行けないので除外しました。
参考までに、近場の陸軍飛行場の名称としては、近在の大きなエリアの名前を付けた物として「柏飛行場」(所在は田中村だったとか)、地名を付けた物としては「藤ヶ谷飛行場」(現海自下総航空基地)等と法則性はハッキリ決まってはいなかった様子。


②飛来機の有無および機種の疑問

本文に書いたとおり、飛来機の話に関しては何説かあります。
以前から言われているのは、「隼」が一度着陸したが失敗大破したと言う話でしたが、最近新しい目撃談も出て来たりしています。
当時近在に住んでいた方の手記では、「雷電」や「屠竜」が飛来したと言う下りや、戦後放置されていた戦闘機の操縦席に乗り込んで座った等の記述も見受けられます。

海軍機「雷電」が飛来したと言うのは、ちょっと信じ難く見間違えかなとも思ったのですが、おっと・・・「小園の乱」関係かな?とも考えられたりする。

終戦後も徹底抗戦を宣言し、しばらく戦闘態勢を維持していた小園安名司令率いる海軍厚木航空隊。
8月15日の後も、零戦や雷電で飛び回り陸海軍の航空基地へ蜂起を促しに行ったり、抗戦を呼びかける伝単(ビラ)を上空から撒いたりしていたそうです。その内の一機が飛来した物なのかも?知れません。
ただし、航空基地としては結局稼動していなかった様子なので、着陸まで行なったのかは疑問です。
「屠竜」は・・・うーん、良く解らず。


③この基地は「秋水」の運用も考えていたのか?

戦争末期開発されていたロケット戦闘機(海軍では「秋水」陸軍では「キ200」と呼ばれていましたが陸海軍共同開発)、陸軍は柏で部隊編成すべく準備していたのですが、この柏飛行場の終戦時のレイアウトが、規模は違う物のこの越谷の飛行場に酷似している様に見えるおいらです。


上記は裏付けも無いおいらの勝手な妄想なので、鵜呑みにしないで下さいまし・・・

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