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越谷の飛行場跡探索・その2 [飛行機]

前記事からの続き、「越谷陸軍飛行場」周辺の徘徊記録その2です。

南東の営門跡とおぼしき所から、反時計回りで当時基地外周に設けられたと思しき排水路伝いに廻って行く事にしましたが、東北から北側は再開発が進んでおり上手く辿る事が出来ません。

南から北に進んで行くと、越谷市のリサイクルプラザ(粗大ゴミ受入施設)が左手に見えて来るのですが、上画像がその建物の向かい辺りの光景。

道から斜めに用水路が伸びていますが、これが当時の基地外周とおぼしき痕跡。
この用水の取り付き方向が、当時の滑走路の向きとほぼ平行な南北方向。

自転車では用水に沿って進めないので、最寄りの道で北に向かいますが、この先北端部は運動公園や水上公園および高校の敷地等が広がり、すでに外周跡に沿って進む事は出来ません。なのでショートカット。

上画像は、滑走路北エンドのターニングサークルと誘導路が交わっていた辺り。
この駐車場北側にある道を西に進むと、水上公園の脇辺りで当時の外周排水路とおぼしき用水路が再び合わさりますが、この辺りから市境を越え、さいたま市岩槻区になります。

上画像の水路が、当時の外周とおぼしき水路で、右奥に見えるのが県立越谷北高校の校舎。

西側の岩槻側は、当時とそんなに変わっていないかの様な田んぼが広がる光景。高い建物も皆無なので、ちょっと先にある埼玉スタジアムが良く見えます。
その先、西側の外周跡に沿って南下して行った所で見つけたのが、この飛行場の通称名の一つな「論田」の名前が入った電柱。

「論田」と言う地名。無くなって久しい様で、この電柱の表示以外にはお目にかかる事は出来ませんでした。ネット検索でも上手く引っ掛からず・・・
補足ですが、もう一つの通称名の「新和」は今でも小学校の校名として存続しております。

さてさて、外周跡らしい道と言うか、所々あぜ道みたいな所を進んだ先の南端エリアが、当時の遺構が一番残っているエリア。

滑走路南エンドのすぐ西に、コンクリートの基礎と格納庫の痕跡らしい物が今も残っていました。

コンクリート基礎は、通信塔の基礎なのかなと思いますが詳細不明。その背後の林状の所が当時の航空写真で見る事が出来る格納庫らしい建物が所在していた所。

コンクリ基礎は、稲刈りも終わっていたので近くまで寄って観察して来ましたが、浅学なおいらはやはり詳細不明に終わりました。

入れられた砂利がかなり粗い・・・この辺は後の構造物でも顕著に見受けられます。

夏に見かけた、桶川はホンダエアポートの敷地の片隅にある物と形状が酷似しているのですが、どちらも詳細不明。
ご参考までに、桶川の画像は「こちら」です・・・

格納庫?だった辺りは、菜園が広がっていたので近くまで行かずでした。

しかしこの格納庫エリア、設けられた誘導路とは逆の位置に所在しているのが解せないおいら。
航空写真で見ると、滑走路の巾が公称値60メートルと言われていますが、その巾に匹敵する位の間口なので、まぁまぁな大きさの格納庫が所在していた様子。

現在の航空自衛隊基地で見られるような、スクランブル発進用(当時は、「警急隊」なんて呼んだとか)として設けられたのか・・・?でも、物量の差が圧倒的に違う時期にそれは無いかな?
それとも、当初はこの一角に格納庫や基地施設を作る予定だったのが、地勢の関係で紆余曲折の結果こんな中途半端な配置になってしまったのか?

詳細な工事資料でも残っていれば、その辺も定かになるのでしょうがね~。

閑話休題、先に進みます。
この日(11月3日)はそのまま滑走路跡道路方向に進んだので、その前週の下調べ時の画像で南端の池等を紹介します。
このエリアの南に当時作られた調整池、「新堀池」。国道463号バイパスの建設で大分面積が減りましたが、まだ残っています。

地元俗称では、「飛行場沼」とも言うとか。
今では国道463バイパスが出来た関係もあり、すんなり池まで行けなかったりする事をご報告しておきます。

この池、池の周囲に用水路が張り巡らされていて、池には釣人が掛けたであろう足場板の様な橋からでしか入ることが出来ませんでした。現在の治水系統からも切り離されている様でしたが、その関係か良い釣り場になっている様で、こんな看板もありました。


話を3日に戻しまして、格納庫跡先の滑走路跡道路との間にあるのが、当時設けられた排水用の水路。

滑走路の東西に一本づつ、平行して南北に同様の物が設けられており、堅牢な作りなので撤去もされず残っております。

形状はボックス状の鉄筋コンクリート製で、上部には出水を取り込む為の穴が点々と設けられています。なんでも、「戦車が乗っても壊れない」とか・・・
そもそも、なんでこんな作りの排水路を設けたのか?

これは推定ではありますが、滑走路と平行する東西の部分は当時の他の飛行場で見受けられる「離着陸帯」として整備しようとしたのでは無いかな?と。
飛行機が上を通るので、この様な堅牢な作りの排水路が出来たのではと推測する次第であります。
それにしても、ゴツゴツした作りが戦争末期の時世を想像する事が出来ます。

こちらは、滑走路東側の水路。

上に土が覆いかぶさっている所などは、ただの農道の様ですが、この下にも水路は残っています。
この水路を初めて見た印象として、「たまった泥はどうするのだろう?」と言う素朴な疑問がありましたが、徘徊していると答えらしき物が。

所々に、蓋が開けられる様になった箇所があり、そこから掻き出す様な感じになっていました。
排水路跡も探索したので、当時の滑走路跡の道路に戻り北へ。

元々の滑走路は、巾60メートルのコンクリート舗装だったそうですが、終戦後コンクリは剥がされて復興資材に転用され、現在見られる巾狭の道になったとの事。今の道は幅員10メートル位で、この左右両脇の建物がある辺りも滑走路だったそうです。

以前は、産廃業者の施設ばかりだっと様ですが、通ってみると何だかクルマのカスタム系なショップが多いのが目に付きました。

滑走路跡の道を北に進むと、先ほど東西に抜けた水上公園の入口脇に至るのですが、公園の入口そばにある歩道橋が当時の北エンド辺り。

はみ出し話ですが、この水上公園。夏場は当然プール主体で営業していますが、今時はプールに魚を放し釣り堀として営業してたりします。

ずいぶん前に、連れられて一度行きましたが、ボウズでした・・・釣り堀オープン直後が、放した魚がスレて無く釣りやすいとの事。

この北端から、西にちょっと離れた所に当時作られた施設と、はるか離れた岩槻の地にもう一つ飛行場関連の物があるのですが、またまたここで切らさせて頂きます~。

「その3」は、残りの光景及び素朴な疑問編と参考リンク集の予定であります。

続く
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