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越谷の飛行場跡探索・その1 [飛行機]

今回は先月から数回探索して来た、今では「越谷陸軍飛行場」と呼ばれる事が多い周辺の徘徊記録その1です・・・中々手短にまとめる事が出来ませんでして・・・ゴメンナサイ。

今回のお題な場所はこの辺り、現在(H27)の行政区画で言うと、埼玉県はさいたま市岩槻区と越谷市の境目にあたるエリアになります。

この辺り、何だか妙に周辺と違う直線道路が合ったり、周囲の道とは方向が違う取り付け方だったりなんかと見て取れるかと思いますが、この一帯が飛行場として開発された頃の名残り。

当時はまだ、さいたま市(岩槻市)や越谷市などの大きな自治体では無く「新和(にいわ)」村及び「荻島(おぎしま)村」だったため、村名の「新和飛行場」、「荻島飛行場」とか、土地の名前の「論田(ろんでん)飛行場」、「末田(すえだ)飛行場」などの俗称で呼ばれていた様子です。
結局航空基地として未完のまま終戦を迎えたためか?制式な名称は無かった様子。
今では、最初に書いた呼び方が浸透している様ですが、いささか疑問があるおいら。この辺は最後に書いておきます。

さてさてこの飛行場、本土決戦に向けた首都防空力増強のため昭和19年7月に着工し、同年10月には竣工の予定だったのですが、工期が遅れに遅れ周辺住民の挺身隊や朝鮮人の使役(強制労働?かも知れません・・・)なども動員し、結局工事完了したのは翌20年8月。
8月と言えば、15日で終戦になったため、結局本来の目的には間に合わなかった幻の飛行場となってしまいました。

とは言え、滑走路は使われた事もある様でして、終戦間際に一式戦・隼が1機着陸した物のオーバーランして大破したのみと言う話や、二式複戦・屠龍海軍の局地戦・雷電等が飛来して実際に離着陸したとか、終戦後米軍のP-51が降りたなんて話がありますが詳細や真偽のほどは良く解らず。
この辺の疑問推測は後にします。

上が、現在国土地理院の航空写真閲覧サービスで見る事が出来る一番古い現地の航空写真。米軍機撮影の物で、終戦から半年ほど経過した昭和21年3月の同地。
緑線で囲ったのが、何となく解る基地外周の境界。
位置参考用として右横の青線で囲んだのは、宮内庁埼玉鴨場です。ご参考まで。

見た印象としては滑走路は出来上がっている物の、附帯設備が不完全と言った感じで、贔屓目に見ても「工事完了」と言うには程遠い印象。
ただし、滑走路なんかは欺瞞用に迷彩でも掛けていた感じでして、もう少し後の航空写真では滑走路や誘導路がハッキリ見て取れます・・・もう少し後の航空写真が、下の物。

滑走路は、両エンドに方向変換用ターニングサークルが付いた他基地の当時物航空写真でも見かける作りなのですが、誘導路にかなり違和感を感じるおいら。
最初から、この構想だったのか地形の関係でこんな感じになってしまったのでしょうか?

現在では、このエリアのすぐ東側を国道4号バイパスが南北に貫いておりますが、バイパスが通っている辺りは今でも台風や大雨で冠水通行止めになる頻度が高いエリア。
70年前は今以上に地盤が弱かったり排水も良くなかったりと想像するおいら。当時は重機なんて機械力も皆無に等しい状態だったため、かなり難儀した工事だったのは無いかなと推定しております。

余談ではありますが、数年前の竜巻が発生したと推定されるのがこのエリアだったり・・・

終戦後は米軍が進駐した物の、こちらはすぐに接収解除され、陸軍省解体に伴ない他の基地跡同様大蔵省管理となった同地。その後引揚げ者や開拓者に払い下げられたとの事。

と、長い長い前説でしたが、徘徊話を展開いたします。まずは、基地の入口(営門)では無いかと思われる所から徘徊開始。
誘導路の下側、方角で言うと南東に当たる位置にまばらですが兵舎と見られる建物が点在しています。

そのエリアと付近の集落を繋ぐように伸びる道路が、多分?営門が所在した(あるいは営門となる予定だった)可能性が高いかな・・・と推測した次第。
現在の同地が、こちら。

失礼な表現ですが、この辺にしては何だか無駄に広い道路が伸びております。
この通りを先に進むと、誘導路脇の指揮所と見られる建物が建っていた所まで行く事が出来ますが、今は当然全然面影もありませんでした。

上の画像が誘導路跡に沿って残る道筋の北側を見た図ですが、当時よりも道幅はかなり狭くなっております。南側は、最近越谷辺りでも少なくなった未舗装路が少し残っていたり・・・

舗装の需要が無いからでしょうが、こちらも知らない人が見ると無駄に広い道幅な印象でしょうね~。

ここから、当時の兵舎跡地に残る建物を確認するために、一度先ほどの営門?位置まで戻ったおいら。
建物は長屋状の物がまだ一つ残っていましたが、お住まいの方もいらっしゃるようなので画像は割愛致します。代わりに、勤務先にあった20年くらい前の住宅地図画像でちと解説を。

他に建物が無かった頃、採光が良い様に?道筋関係なく建てられた建物が兵舎の名残り。
三棟の長屋状の物が平成になるまで現存していたようですが、その後の宅地開発で画像のグレーに塗りつぶした建物は今は無く、赤く塗りつぶした一棟だけが現存しております。

見た感じでは、建物的には兵舎をそのまま転用した物では無いような印象でしたが、詳細は不明であります。

ここから、当時の基地外周であろうと思われる道筋に沿って一回りして、今も残る飛行場の痕跡を探りに行ったのですが、ここで一旦切ります~。

その2に続く
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