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下山国鉄総裁追憶碑 [ちょっと鉄ねた]

リアルではもう松の内も過ぎ、お飾りも外す時節になりましたが、今回も正月2日のお話の続きであります・・・
隅田川七福神めぐりが終わった後、まだ陽も高いからと帰りに立寄ったのが「下山事件」(←リンクはウィキ)の現場近くに建てられた「下山国鉄総裁追憶碑」。事件の現場は知っていたのですが、追憶碑がある事を今更ながらではありますが去年初めて知ったので足を運んで見ました。




隅田川七福神めぐりを終えた後、堀切橋を越え荒川土手を上流に進みます。
しばらく走ると、容疑者保釈報道で良く見かける小菅拘置所の入口が土手下に見えて来るので土手を離れ拘置所方向へ。
小菅拘置所脇を北に向かい少し進むと、東武線と常磐線が立体交差する所がありますが、交差部のやや綾瀬駅寄りが、下山総裁の亡骸が発見された辺りとなります。

上画像は綾瀬方向を背にして撮った画像で、左手が荒川方向。
上が東武線で下は常磐線、道路のすぐ横はつくばエクスプレスが通っているのですが、この辺ではすでに地下に潜っているので線路は見えません。

追憶碑は、当初この現場すぐそばに建てられたとの事ですが、常磐線の改良工事や地下鉄千代田線やつくばエクスプレス線の工事に伴ない、やや綾瀬駅寄りのガード脇に移設されています。


「第1号伊藤谷高架橋」と言う表記がありましたが、事件当時は踏切で道路と交差していた様子。
この高架橋の傍らに、移設された赤御影石の追憶碑がひっそりと佇んでいました。

太平洋戦争敗戦後、連合軍が進駐し統治下にあった昭和24年。この年は大規模な人員整理を控えた国鉄で不可解な事件や事故が相次ぎました。

「下山事件」もその一つでして、所謂「迷宮入り」事件。今でも自殺説、他殺説に始まり進駐軍謀略説等と諸説色々ある物の、真相は未だに藪の中な事件であります。
昭和24年7月6日、前日から行方が分からなくなった当時の下山国鉄総裁が、早朝轢死体で発見されたのが綾瀬駅手前の常磐線線路上。

以後の捜査も空しく、容疑者も特定出来ないままお宮入りとなった事件ですが、おいらの個人的な感じでは、終戦後活発になりだした労働組合運動の流れが、ソビエト共産主義との連携となる事を危惧した当時の進駐軍(=アメリカ)が画策実行した事案では無いかな?なんて思ったりしてます。

当時は朝鮮戦争の真っ最中、日本は共産主義の防波堤とした位置付けでもあったため「アカ」が広まるのは良くないので、上手く日本人を操作しなくては・・・なんて所でしょうかね~?
実際、下山事件の関係で火が付き始めていた国鉄の人員整理問題も大火事にならず収束したみたいだし・・・

新年早々足を運ぶ場所としては湿っぽい所ではありましたが、日本の鉄道の安全と更なる発達を願い?頭を垂れて来たひまねねでした。







おまけ
この追憶碑を知ったのは、昨年Bっくオフで買ったこんな本に出ていたのがきっかけでした。

研秀出版発行の「日本の歴史」15巻。刊行年度は良く解らないのですが、昭和50年代前半位の物みたい。
買って来てパラパラと見ていて見つけたのが、巻頭カラーページのこんな画像。

この本の刊行当時は、まだ現場に近い位置に碑があった様子。今はTXの線路が潜って行く辺りかな?と。
通過している列車、気動車ですが旅客車では無く「キハニ」とか「キハユニ」みたい。
昭和50年代だと、常磐線上野発の気動車列車はもう無かったと思うので、旅客車併結では無い単独な荷物列車なのかな~なんて思ったり。

以前は比較的近所であろう四つ木に30年ほど在住し、尚且つすぐそばの荒川土手で昔モトクロごっこをしていたのですが、今回が初訪でした・・・あぁナサケナイ。



余談ですが、この本を見かけた時は全16巻揃った状態で棚に置かれていました。
ですが、一冊108円でばら売りOKだったため、明治以降の巻だけ買うと言うお店にしては迷惑な買い方をして来たひまねねです~・・・
研秀出版って聞いた事無かったので調べて見ましたが、学研の子会社だったみたい。多分、当時「ブリタニカ百科事典」みたいな販売方法で売られてたのかと思いますが、当時の販売価格はどの位だったのだろう?なんて思ったりもします。

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